今でも原発は収束しない様子だし、ネットや雑誌を見ていても『復興』の文字をまだ頻繁に見かけます。
それでもあの当時の記憶は少しずつ薄れていて、というより、
あまりにも恐ろしい体験だったので、記憶の片隅にしまいたくなる。
というのが、自分の中では本音なのかもしれない。なぁと、
ちょうど2年がたとうとしている今、振り返ってみて感じています。
そこで見て体験したことを記した文章があるので、ちょうど今、それをまたシェアすることで
何かを感じて頂ければなと思います。
そして撮ってきた写真は、当時載せることができないままでいたのだけど、今回は写真付きでシェアしようと思います。
テレビでも何度となく流されていたあの景色。
それでも実際に見る景色は目を疑うほどの、想像を絶する景色だった。
ほんとに小さなフロアだけで営業をしていたのが、あまりにも痛々しかった。
たくさんの人たちの励ましの手書きコメントが書かれた張り紙をしていて、
それが希望の「シンボル」になっていた。
よく見ると階段のガラスが割れていて、エスカレーターには乾いた泥が溜まっていた。
仙台行きまでのバスがいつの間にか出発していなくなっていた。
タクシーの運転手さんに話しかけて、人の良さそうな人だったので
レンタカー店まで乗ることにした。
米がしばらく作れないという話とか、信号機の代わりに交通誘導してるのは
東京のおまわりさんだよとか、そんな話をいろいろとしてくれた。
なんて話もしてくれて、共通の話題で少し盛り上がった。
「ほんの気持ち」と言って。
軽く泣きたい気持ちと、とても申し訳ない気持ちになった。
港へ向かう途中で、家の塀が壊れていたり、大量の瓦礫が積まれていたり、
信号機が故障していたり、津波がきた地域であることがすぐに理解できる。
相当な瓦礫が撤去されたはずだ。
おそらく自分の船だろう、その修理をしている漁師さんが
椅子に座っていて何もしてない姿を見て、いたたまれない気持ちになった。
そこに並ぶお店は軒並み壊されて休業していた。
津波のニュースで頻繁に聞かされた「壊滅的な被害」。
(※ これは若林区で撮影した写真。)
そのにおいの中で見た石巻の景色は一生忘れない。
(※ これは若林区で撮影した写真。)
ショベルカーを使って会社の瓦礫の撤去をしてる景色が
一つ二つと見つかった。
動き始めてるんだ。と、感じた。
(※ これは若林区で撮影した写真。)
ショベルカーが道路を塞いだりしてひどく渋滞する中、
避難所へ向かった。
たくさんのテントを張って滞在していた。
仕組みになっていた。
夜通しの作業でもあればとお願いした。
派遣場所で行う作業で、午後4時には戻ってくる。ということだった。
受付用紙が風に飛ばされて、
「じゃあまずは拾うの手伝ってください。仕事ができましたね(笑」
なんて笑いながら言われた。
一生懸命どのうを作ってた 笑)
自分にとっては100倍も良かった。
行きに松島を通ったときに見た、津波の被害で軒並みお店が閉まっていて
そんな中、一軒だけ綺麗な店構えで営業していた牛タン料理屋へ寄った。
なぜこのお店だけ営業出来てるのか、しかも店内がすごく綺麗な状況で。
想いで、急ピッチで復旧をしたのだ。と言われた。
だからまだ天井はあんなです。と全く気づいてなかった天井の様子を
指差して笑っていた。
すごく元気と希望をもらった。
薄っすらと蒼く見える松島は、綺麗だった。